渡辺崋山

渡辺崋山watanabe kazan 寛政5年(1793)~天保12年(1842) 田原藩家老・画家・蘭学者 愛知県田原市
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プロフィール

渡辺崋山は、寛政5(1793)年9月16日、江戸麹町〈こうじまち〉の田原藩上屋敷〈たはらはん・かみやしき〉に生まれました。田原藩主三宅家は1万2000石の小藩で、渡辺家も窮迫していました。崋山は、病身の父、老祖母、8人の子供を抱える気丈な母を助け、幼時から苦労を重ねて勉学習画にはげみました。8歳より若君お相手として出仕。13歳の頃、藩の儒者鷹見星皐〈たかみ・せいこう〉につき、後に佐藤一斎、松崎慊堂〈まつざき・こうどう〉に学んで朱子、陽明の学をきわめ、さらに蘭学による西洋事情の研究に進みました。漢詩、和歌、俳諧、書をよくし、師友もたくさんいます。とくに、天性の画技は、金子金陵〈かねこ・きんりょう〉、谷文晁〈たに・ぶんちょう〉に師事して大いに進み、南画に独特の描線と洋画の立体感を取り入れ多彩な名品を残しました。門弟には、椿椿山、福田半香、山本琹谷、平井顕斎、井上竹逸、永村茜山らがいます。

天保3(1832)年、江戸家老職を命ぜられました。当時、日本近海をうかがう外国船が多く、領内沿岸の要所に遠見番所を設け、砲台を築き、沿岸の村々へ外国の旗印を配って異国船の監視に当たらせ、海岸防備に心を用いました。内政面では、田原領内へ課せられた助郷の免除運動、新田開発による沿岸民の不安解消などに尽力。天保の飢饉の際には官民一体で義倉「報民倉」を築き、凶作を乗り切りました。この時、崋山は病中で田原へ赴くことができないため用人真木重郎兵衛に策を授け、鈴木春山、大蔵永常らが活躍し、上下一体となって1人の餓死流浪者もだしませんでした。

崋山は、鎖国日本が世界の水準よりはるかに遅れていることを最も憂えた1人です。人々が外国への認識を高めるために蘭学研究の結社を作り、田原藩老公三宅友信に蘭書を数多く集めさせ、高野長英、小関三英、鈴木春山らにこれを訳読させました。また西洋砲術家江川坦庵、通訳幡崎鼎、羽倉簡堂、下曽根金三郎、遠藤白鶴らとも交流し、オランダの甲比丹の語るところを聞き、国政の方向を誤らぬように心を注ぎました。その著『鴃舌小記(げきぜつしょうき)』『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』『西洋事情御答書』『慎機論』には、驚くべき博識と攘夷の非を唱える憂国の情が書きつづられています。

しかし、蘭学の進出は、儒学派が勢力を占める幕府為政者にとって大きな障害であり、天保10(1839)年、幕府目付の鳥居耀蔵により、長英らとともに逮捕されました。崋山は、『西洋事情書』や『慎機論』が幕府非難であるという罪を受け重罪になるところ、恩師松崎慊堂の献身的な請願書により12月に在所蟄居となり、翌1月20日田原に到着し家族と共に池ノ原邸に幽閉の日を送る身となりました。しかし、画弟子福田半香らが、崋山の絵を売りその収入によって恩師の生計を救おうとした事から、藩内外の世評が喧しくなり、藩主にまで災いの及ぶことを畏れた崋山は、天保12年10月11日、49歳のとき、自らを不忠不孝と言って池ノ原屋敷に自刃しました。

ことば

「眼前の繰り回しに 百年の計を忘する勿(なか)れ」

天保の飢饉の際に、藩御用金調達のために、大坂に赴くことになった真木定前に外交交渉の心構えとして与えた「八勿の訓戒」の一説。意味は、目先にとらわれて、永年先の計画を忘れるな、ということ。

ふるさとの自治体「愛知県田原市」

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激動の幕末を生きた渡辺崋山。田原藩家老であり、画家、蘭学者の顔も見せる。調和・うるおい・活力が共生する田原市は、恵まれた自然と崋山をはじめとした輝かしい伝統に誇りをもち、互いの心がふれあい、明るい未来が展望される郷土を築く。

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