佐久間象山

佐久間象山sakuma syouzan 文化8年(1811)~元政元年(1864) 思想家・兵学者 長野県長野市
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プロフィール

佐久間象山〈さくま・ぞうざん〉は江戸時代後期に松代〈まつしろ〉藩士の家に生まれました。幼名を啓之助〈けいのすけ〉といい、通称を修理〈しゅり〉、雅号〈がごう〉を象山〈ぞうざん〉・子明〈しめい〉としました。

少年時代から秀才の誉れ高く、天保4年(1833)に江戸に出て佐藤一斎〈さとう・いっさい〉の門人となり、渡辺崋山〈わたなべ・かざん〉、藤田東湖〈ふじた・とうこ〉などと親交を深めました。

天保7年(1836)に帰郷し、藩の師弟に学問を教授した後、天保9年(1838)に再び江戸に遊学、神田〈かんだ〉・阿玉池〈おたまがいけ〉に私塾を開きました。天保13年(1842)に松代〈まつしろ〉藩主である真田幸貫〈さなだ・ゆきつら〉が幕府老中海防掛〈かいぼうがかり〉になると、顧問として海外事情を研究し、「海防八策〈かいぼうはっさく〉」という意見書を提出しました。

黒川良安〈くろかわ・りょうあん〉と蘭学・漢学の交換教授を行ない、オランダの百科事典などから洋学の知識を身につけた後、嘉永3年(1850)に深川の藩邸で砲学の教授をはじめ、吉田松陰〈よしだ・しょういん〉や勝海舟〈かつ・かいしゅう〉、橋本左内〈はしもと・さない〉ら多くの人材を集めました。なかでも、吉田松陰と並び「象山門下の二虎〈にこ〉」と称された小林虎三郎〈こばやし・とらさぶろう〉は、米百俵をもとに国漢学校を設立し、日本を背負う多くの人物を輩出した教育者で知られています。そのほか様々な分野の学問に通じた象山は多彩な業績を残しており、ガラス製造や地震予知器、電気治療機の製作、電信実験等が知られます。

嘉永6年(1853)のペリー来航に際しては浦賀に向かい、黒船を実見したといいます。藩の軍事役に任ぜられ、開国論を唱え、横浜開港を主張しましたが、吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居〈ちっきょ〉を命じられました。その間には、高杉晋作〈たかすぎ・しんさく〉ら明治維新で活躍した人物が多く松代を訪れました。

元治元年(1864)に蟄居を解かれ、将軍家茂〈いえもち〉の命により上洛しました。公武合体、開国佐幕を説いて活躍中の元治元年(1864)7月11日、三条木屋町〈さんじょうきやまち〉で、尊王攘夷派によって暗殺されました。

ことば

「日に一たび移れば、千載再来の今なく、形神既に離るれば、萬古再来の我なし、学芸事業、豈愁愁たる可けんや」

時刻は一度移れば二度と帰って来ない、生命は一度絶えれば二度と生きられないから学芸の修得も、事業の実施も、決して悠々としては居られない、という意味を唱えた。

「自分は二十歳にして一国に属することを知り、三十歳にして天下に属することを知り、そして四十歳になって世界に属することを知った」

象山は、20歳で自分は藩に属している、30歳になったときに日本に属している、そして40歳になって世界に属している。自分の生涯を例え、地方、国、世界という3つの視点を持つことの重要性を表した。

ふるさとの自治体「長野県長野市」

関連リンク

佐久間象山が生まれ育った長野県長野市では、現代の地域づくりを考えたときに、佐久間象山の教えを原点として精神・意識を根底に据えた取り組みを進めている。
 また、故郷の松代〈まつしろ〉小学校では、総合的学習を「象山先生を学ぶこと」で理解力や物事を調べる力など身に付け自分自身に自信を持てる子供になって欲しいことを願っています。

長野県長野市の詳細情報

関連施設

象山記念館ホームページ

佐久間象山の事跡が紹介された記念館であり、展示資料には地震予知器や電気治療機などがあり、短編アニメを放映しています。
⇒⇒象山記念館(真田宝物館ホームページ内)