島 マス

島 マスsima masu 明治33年(1900)~昭和63年(1988) 沖縄社会福祉の母 沖縄市(沖縄県)
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プロフィール

戦後の米軍統治下で、その半生を福祉活動に生きた島マス。

1900年に美里間切伊波村(現うるま市)で生まれる。家は貧しく、厳しい生活ではあったが、勉強の好きな子だった。

マスは、沖縄県女子師範学校を卒業し、小学校の訓導(教師)として教育者の道を歩む。しかし、鉄の暴風といわれる凄惨な沖縄戦がマスの人生を一変させる。マスもまた多くの沖縄人クチャーンチュ同様に最愛の子供を戦争で亡くし、命からがら戦禍を生き延びる。戦後、再び教鞭をとることになるが、時代はマスを一教員に押し込めることはなかった。

マスは、49歳の年に、教員生活に終止符を打ち、米民政府より任命された越来村の厚生員として、荒廃した戦後沖縄の人々の救済に乗り出して行く。おりしも、コザは相次ぐ基地建設に沖縄各地や奄美から生活の糧を求めて人々が集まり、基地の街へと大きく変貌して行く時代であった。それに伴って、マスは、米兵相手の商売をする特殊婦人の問題や青少年の非行や犯罪への対応に明け暮れる毎日だった。

子供を抱え、生きていくために特殊飲食街で働く母親(その多くは戦争未亡人であった)を取り締まることに、マスは、「特殊飲食街で働くことをやめろというのは簡単だ。それよりも先に職業を与えてやるのが、私の役目だ」と言って、どん底にいる母親たちに手に職をつけさせるための職業訓練に奔走する。

また、マスは、犯罪を犯し軍裁判にかけられた子供たちの身柄を引き取り、「胡差児童保護所」をつくって、子供たちの更生に全力で取り組む。さらに、窃盗や特殊飲食街で保護された少女たちのために、米軍のコンセットを貰い受け、自分の土地に「コザ女子ホーム」を開設し、彼女たちと共に生活する。

マスがつくったこの二つの施設は、後に琉球政府の管轄へと移管されるが、それは、児童福祉法などの制度がない時代に、マスの情熱と行動、そして彼女を信頼し支えた人々がなしえた福祉の姿であった。

その後、マスは、58歳の年に、中部地区社会福祉協議会の事務局長に就任し、民間福祉の要である社協人として、地域の福祉地図をつくるなど、実態調査に基づく科学的な福祉事業を進めるともに、組織をつくり、人を育て、精力的に福祉活動を展開していく。

マスは、88年の生涯を閉じるまで、ひたすら、「チムグリサン(心が痛む)」の心を信条とし、他人の苦悩や悲しみと寄り添い続けた。そして、いつしか彼女は、みんなから「オカァ先生(お母さん先生)」と呼ばれるようになっていた。