山村蘇門

山村蘇門yamamura somon 寛保2年(1742)~文政6年(1823) 江戸時代の学者代官 長野県木曽町
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プロフィール

山村蘇門は江戸時代の中ごろ、寛保2年3月6日、現在の木曽町福島に山村家の2男として生まれた。名は良由〈たかよし〉、通称は甚兵衛〈じんべえ〉で、蘇門というのは号である。

山村家は徳川に代わって木曽を治める代官の仕事と、福島の関所を守るという特別に大切な仕事を与えられていた。

蘇門は幼くして読書を好み、10歳の頃は昼夜本を手にして読書にふけったので、侍医が心配して父の良啓〈たかひら〉に告げてやめさせようとしたが、かえってこれを悲しみ、食事をとろうとしなかったので、侍医も驚いて好きなようにさせたという。

宝暦(1751 ~ 64)の初年、山村家の侍医であり、本草学者であった三村道益〈みむら・どうえき〉について学び、宝暦11年(1761)、20歳にして将軍代替わりの挨拶のため、父に従って江戸へ参府して将軍家治〈いえはる〉にお目見えした。

江戸滞在中に、大内熊耳〈おおくち・ゆうじ〉に師事し、なお、在府の諸名家とも交流を約して木曽へ帰り、その後は疑問の点があると書き留めておき、手紙で教えを受けたという。

明和3年(1766)、京都の江村北海〈えむら・ほっかい〉に入門した。前年には蘇門の片腕となって仕えた石作駒石〈いしづくり・くせき〉が伊勢の学者南宮大湫〈なんぐう・たいしゅう〉に師事した。蘇門は大内熊耳没後、南宮大湫に教えを受けたが、大湫は、中西淡淵〈なかにし・たんえん〉に学び、細井平洲〈ほそい・へいしゅう〉とは同門であったから、平洲とも交流して教えを受けた。

天明元年(1781)、蘇門は家督を継いで第9代代官となった。このころ山村家の財政が大変に苦しい時代であったが、率先垂範して倹約・節約を進め、税の引き下げや新田開発、馬産・製薬・漆器など高級商品育成などにより財政再建にも多大な成果を収めた。

天明7年(1787)は全国的な大飢饉で、餓死者もたくさん出た。蘇門は木曽領内を自ら巡視、その救済に尽力し多くの人々が餓死を免れた。このような業績が認められ、尾張藩の年寄(家老職)に迎えられ、伊勢守に任じられた。その後、隠居して江戸に住み、尾張の細井平洲、幕府の古賀精里〈こが・せいり〉、水戸の立原翠軒〈たちはら・すいけん〉、久留米の樺島石梁〈かばしま・せきりょう〉など、多くの学者と交流した。また、蘇門は優れた漢詩をたくさん作った。著書に、『忘形集』『清音楼詩鈔』などがある。

ことば

文行忠信〈ぶんこうちゅうしん〉

山村蘇門は、自ら筆を執ってこの文を扁額とし、山村の学問所に掲げた。文意は、「学問・徳行(道徳と実践)・忠誠(真心をつくすこと)・信義(人をあざむかないこと)」で、論語に述べられている孔子の教育四要素である。蘇門自身が誠実な実践者であった。この書は、青莪館〈せいがかん〉、文忠学校〈ぶんちゅうがっこう〉を経て今日に至るまで約200年間、木曽の教育の場に掲げられてきた。今日も、福島小学校講堂に高く掲げられている。

ふるさとの自治体「長野県木曽町」

木曽町は「まちづくり条例」を制定し、地域で互いに助け合い、地域自治組織と行政が一体となってお互いに汗をかきながら、知恵と工夫を出し合って住民参加の新しいまちづくりを目指しています。それぞれの地域の持つ自然環境や人々のつながり、またこれまで先人が築いてきた地域の伝統・文化など価値ある貴重な資源や財産を活かしながら地域の一体的な発展を目指します。

関連施設

山村代官屋敷〈やまむらだいかんやしき〉

[住所]〒397-0001 長野県木曽郡木曽町福島5808-1
[電話] 0264-22-3003
[利用時間]
8:00~17:30(4月~10月)
8:00~6:30(11月)
8:30~16:30(12月~3月)
[休館日] 無休(12月~3月の木曜日) ※年末年始休業12/29~1/3
[入館料] 大人300円・小人150円

山村代官屋敷ホームページ

参考文献