瀧廉太郎

瀧廉太郎taki rentarou 明治12年(1879)~明治36年(1903) 西洋音楽黎明期の作曲家 大分県竹田市
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プロフィール

瀧廉太郎は、明治12(1879)年8月24日、豊後〈ぶんご〉日出藩の家老職を努めた瀧家の長男として東京都港区西新橋に生まれました。父吉弘〈よしひろ〉は、外務省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文という大政治家のもとで10年近く内務官僚として勤めたあと、地方官に転出しました。最初が明治15(1882)年11月、神奈川県少書記官に任じられ、次が明治19(1886)年8月、富山県書記官に任じられました。明治22(1889)年3月には、大分に戻り大分郡長、明治24(1891)年11月に直入郡長を歴任し、明治28(1895)年に正式に官職を辞しています。

廉太郎は、明治17(1884)年には父親の任地である横浜の神奈川県師範学校附属小学校に入学しました。明治19年の父親の富山への赴任により富山県尋常師範学校附属小学校に転入しました。さらに、明治21年5月から明治23年3月までは東京に残り麹町小学校尋常科を卒業しました。郷里大分へ帰った廉太郎は、大分県尋常師範学校附属小学校の高等科に入学しましたが、直入郡(現:竹田市)に父の転勤により転校しました。瀧が2年3ヶ月通った学校は、旧岡藩の藩校由学館跡に建てられた直入郡高等小学校でした。

明治27(1894)年4月、同校を卒業し、将来の音楽師に夢を馳せ東京へ旅立ちました。同年9月、東京高等師範学校附属音楽学校(現:東京芸術大学音楽部)に最年少の16歳で合格し、明治31(1898)年7月には、専修部を最優秀の成績で卒業し、卒業生の総代として謝辞を朗読しました。同年9月には、研究科に入学し、2年生に進学するとピアノ授業嘱託を命じられ、教師として指導することにもなりました。

瀧の代表作が生み出されているのもこの頃で、現在確認されている作曲作品34曲のうち24曲がドイツへ留学するまでの1年半に世に出されています。明治34(1901)年3月に出版された『中學唱歌』には、「荒城の月」「箱根の山」「豊太閤」の3曲が収められています。

明治34年4月に、3年間の予定でドイツ留学へ出発し、ライプチィヒ王立音楽院(現:メンデルスゾーン音楽院)に合格しました。しかし、オペラを観劇した帰りに風邪をひき、聖ヤコブ病院に入院を余儀なくされ、ついに明治35年8月に帰国することになりました。

帰国後、従兄の大吉宅で療養をしていましたが、大吉が40歳の若さで他界したため、明治35(1902)年11月、大分市府内町に居を構えていた父母や兄弟と療養することになりました。肺結核に冒された瀧の病状は、快方へとは向かうことなく明治36(1903)年6月29日、23歳と10ヵ月の短い生涯を閉じたのでした。

エピソード

・音楽師志望

瀧は、竹田の町で多感な少年時代を過ごしました。独楽の綱渡り、歌留多や羽根突きの名人で、当時珍しい西洋楽器ヴァイオリンやハーモニカを級友の前で演奏して見せたそうです。直入郡高等小学校4年に進級したとき、青年教師渡辺由男〈よしお〉から当時県下でも数少ないオルガンが学校にあり、弾奏の手ほどきを受けることができました。また、瀧の銅像を作成した朝倉文夫は、「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳、この2つの教室は丁度向かい合ってゐたので、印象は割に深い。(中略)学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山(岡城跡)で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君、それは稲葉川の川瀬に和した忘れることのできない旋律であった。…」と銅像の裏面に刻んでいます。

音楽学校志望を聞いた父吉弘は、家老の家柄の後継者がそうした道を選択することに反対しました。しかし、生涯にわたってよき理解者であった従兄の大吉が、洋楽への偏見を説き、音楽科になれなければ白粉〈おしろい:役者の女形のこと〉になるという廉太郎の決意が固いこと、極度の近眼のため長い学業を全うできるか危ういことから自らの欲する道に進むことを許されました。

・青春の輝き

最年少で音楽学校に合格した瀧は、専修部に進むとピアノ選択しました。彼の奏でる音楽は、力強く、豊かな響きと表現を湛え「ピアノ界の寵児」と評されました。端正で洗練された風貌は貴公子のようで、傑出した楽才を備え、音楽以外にもテニスの腕は学校中で右に出るものはなく、女生徒の注目を集めただけでなく憧れの対象でもありました。

・廣瀬武夫との交流

ロシア駐在武官として赴任していた廣瀬武夫の許に、ドイツに留学中の瀧廉太郎から「荒城の月」の楽譜が送られ、首都サンクト・ペテルブルグのサロンで知人にピアノで弾いてもらったのですが、居合わせた人々に「日本人がこんな曲を作れるワケがない」と言われ、廣瀬は大変憤慨したのでした。

・土井晩翠との巡り会い

ドイツ留学から無念の帰国は、アントワープから欧州航路に就航していた「若狭丸」に乗り込みました。船がロンドンのテムズ河口に5日間停泊した折り、ヨーロッパ遊学中の土井晩翠から船上において見舞いを受けました。「荒城の月」の作詞家と作曲家が日本ではなく、遠く異国の地において最初で最後の運命的な出会いをしました。

・夢半ばにして

明治36年2月、瀧廉太郎の遺作となったピアノ曲「憾(うらみ)」が完成しました。作品からは、彼の悲痛な叫びが音となって伝わり、音楽に捧げた彼の短い生涯がこの曲には凝縮されています。けれども、彼の人生は、光り輝き、日本人初の西洋音楽の作曲家として、新しい日本の歌の創作に身を捧げ、多くの人の心に永遠に残る名曲を残したのでした。

◎志を継いで

岡城本丸跡には、昭和9(1934)年10月に土井晩翠直筆による「荒城の月」の詩碑が建立されています。昭和22年(1947)2月29日、「楽聖瀧廉太郎45周年記念音楽祭」(第1回瀧廉太郎記念音楽祭・音楽コンクール)が岡城本丸跡の東側に建設された音楽堂(荘嶽社跡)において開催されました。音楽祭の会場は、第17回(1963年)を最後に、現在では竹田市文化会館で開催されています。以来、「西部日本高等学校独唱コンクール」、「全日本高等学校独唱コンクール」と発展し、本年度で第63回を数える声楽家を目指す高校生の登竜門として高い評価を得ている音楽祭となりました。全国大会となってから上位入賞者にはドイツ短期留学の助成金が送られています。なお、バリトン歌手の故・立川清登〈すみと〉(第2回)や「もののけ姫」で一世を風靡したカウンターテナー歌手の米良美一〈めら・よしかず〉(第43回)は、当音楽祭の入賞者で、多くの方が国内外で活躍されています。
さらに、市内の幼小中学校生徒による合唱・合奏が発表される「瀧廉太郎を偲ぶ音楽祭」は第60回となります。
平成7(1995)年に大分県先哲史料館が編集し刊行した『大分県先哲叢書 瀧廉太郎』は、瀧廉太郎の業績及び人間像を明らかにした文献です。
また、二の丸跡には、楽聖瀧廉太郎像(朝倉文夫作)が昭和33(1958)年7月に建てられています。平成4(1992)年には、瀧家が郡長官舎として使用していた、旧岡藩士岩瀬家の邸宅が保存修理され、瀧廉太郎記念館として公開されています。

                               瀧廉太郎記念音楽祭

ふるさとの自治体「大分県竹田市」

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大分県竹田市の詳細情報

関連施設

瀧廉太郎記念館

[住所]大分県竹田市竹田(寺町)2120-1
[電話] 0974-63-0559(瀧廉太郎記念館)
[営業時間] 9~17時(入館16:30まで)
[定休日] 年末年始(12/28~1/3休館)
〔入館料〕高校生以上 300円 団体(20名以上)250円
      小・中学生 200円 団体(20名以上)150円