多久茂文

多久茂文taku sigefumi 寛文9年(1669)~正徳元年(1711) 多久4代領主 多久市(佐賀県)
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プロフィール

多久茂文〈たく・しげふみ〉は、佐嘉藩2代藩主鍋島光茂〈なべしま・なおしげ〉の3男として生まれましたが、幼くして多久氏に養子に迎えられ、佐賀城下で成長しました。父光茂は、芸術や学問に造詣が深く、また、徳川光圀〈みつくに〉の遠戚として光圀から様々な薫陶〈くんとう〉を受けています。その父の影響もあったのでしょう。茂文は幼児より「好学の徒」といわれるほど学問好きであり、とくに儒学を座右の学問としていました。それに加えて、佐賀藩では江戸時代初期より儒学が盛んで、城下には著名な学者がたくさんいました。また、隣藩の小城〈おぎ〉を中心に、黄檗宗〈おうばくしゅう〉が隆盛し、中国仏教や中国文化の影響が強かったことも、少年茂文と儒学を結びつけた一つだと考えられます。

貞享3(1686)年、17歳で多久領4代領主となった茂文は、政治的理由からおこる経済的困窮や一族への不信感となった、領民の悲惨で苛酷な状況を解決する糸口として儒学を導入します。

孔子の教え、とくに「敬〈けい〉は一心〈いっつしん〉の主宰〈しゅさい〉、万事〈ばんじ〉の根本にして、而〈しこう〉して万世聖学の基本たり」という朱子学の「敬いの心」を指針とし、学校を創設することにし、佐賀から著名な儒学者河浪自安〈かわなみ・じあん〉を招いて東原庠舎〈とうげんしょうしゃ〉を創設しました。

また、「廟舎〈びょうしゃ〉を視れば則〈すなわち〉敬を思う」という先人のことばどおり、孔子の教えの象徴として聖廟を建立。人々は、その聖廟を見て、難しいことはわからなくとも、敬意の念がおこり、自然に孔子の教えの基本が身についてくるに違いないと、茂文は考えたのです。

聖廟建設の目的は元禄14(1701)年、「文廟記〈ぶんびょうき〉」に記しています。茂文は東原庠舎や多久聖廟を通して、親を大切にし、人を敬い、礼儀をつくすといった、人としての道を領民すべてに伝えることで、多久を蘇らせたのでした。

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