廣瀬淡窓

廣瀬淡窓hirose tannsou 天明2年(1782)~安政3年(1856) 江戸時代の儒学者・漢詩人 日田市(大分県)
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プロフィール

廣瀬家は、江戸時代の初め、延宝元年(1673)、博多から日田に移住してきた商家で当時日田を代表する掛屋七軒衆の一つで、屋号を博多屋と言います。廣瀬淡窓は、その5代目三郎右衛門(桃秋)の長男として天明2年(1782)に生まれました。淡窓とは、書斎の名にちなみ使い始めた号で、他に、苓陽れいよう、遠思楼えんしろう主人などを用いています。諱いみなは、簡かん、のちに建けんといいます。幼名は、寅年生まれなので寅之助、通称は求馬もとめ。没後の諡おくりなは、文玄ぶんげん先生。

幼少の頃から体が弱かった淡窓は、家業を弟・久兵衛にゆずり、学問の道へ進み、松下西洋まつしたせいようや亀井南冥かめいなんめいらのもとで学びました。江戸時代は、教育熱が高く、幕府直轄の「昌平坂学問所」や全国の各藩には、武士が通う「藩校」がつくられました。淡窓は、文化2年(1805)、豆田の長福寺の学寮を借りて開塾し、その後、成章舎せいしょうしゃ、桂林園けいりんえん(荘そう)と場所や名前を変え、文化14年(1817)、現在の地に咸宜園かんぎえんを開きました。塾は、廣瀬家の支援も得て発展していき、教育者という天職を得た淡窓は、病に苦しみながらも75年の人生をまっとうしました。

咸宜園の咸宜とは、中国の詩集・詩経のある「殷いん、命めいを受く、咸ことごとく宜よろし、百ひゃく禄ろく之これれ何になう」からきています。咸ことごとく宜よろしとは、すべてのことがよろしいという意味で、淡窓は、門下生一人ひとりの意思や個性を尊重する教育理念を塾名に込めたのです。

また、淡窓は、身分や階級制度の厳しい時代にあって、入門時に学歴・年齢・身分を問わない三奪法さんだつほうによって全ての門下生を平等に教育しました。咸宜園の教育制度は、淡窓が長年にわたる教育実践の中で工夫を重ね、改良を加えて作り上げたものです。例えば、月の初めに一人ひとりの学力を客観的に評価し、無級から九級までの等級で席次をつける月旦評げったんひょう、規則正しい生活を実践させる規約きやく、門下生に塾や寮を運営させる為に、全員で職務を分担する職任しょくにんなど、淡窓は、門下生の学力を引き上げながら社会性を身につけさせる教育も行ったのです。

この様な徹底した実力主義と門下生各自の個性を尊重した教育は、全国的に評判となり、入門者は年々増加の一途をたどり、長福寺学寮での開塾から明治30年の閉塾まで、約92年間で10名の塾主によっておよそ5,000名の門下生が巣立ち、江戸時代を通じて国内で最大の私塾となりました。

ことば

「日に一たび移れば、千載再来の今なく、形神既に離るれば、萬古再来の我なし、学芸事業、豈愁愁たる可けんや」

時刻は一度移れば二度と帰って来ない、生命は一度絶えれば二度と生きられないから学芸の修得も、事業の実施も、決して悠々としては居られない、という意味を唱えた。

「自分は二十歳にして一国に属することを知り、三十歳にして天下に属することを知り、そして四十歳になって世界に属することを知った」

象山は、20歳で自分は藩に属している、30歳になったときに日本に属している、そして40歳になって世界に属している。自分の生涯を例え、地方、国、世界という3つの視点を持つことの重要性を表した。

ふるさとの自治体「大分県日田市」

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